しかし『感動』は授業だけでないのも事実だが
過去の偉人たちも感動を受けたのは授業だけには限らない。
と言うか、あまり授業は関係していない。
どちらかと言うと、本だ。
もちろん、それでも構わない。
「俺は男だ!」の森田健作に憧れて剣道を始めても良い。
「ブラックジャック」を読んで、医師を目指しても良い。
「ファーブル昆虫記」を読んで、昆虫博士になるのも良い。
「火の鳥」を読んで、科学者、哲学者、漫画家になるのも良い。
でも、授業でも良い。
僕だって今までに授業に感動した経験は、何度かある。
最初は中学1年生の数学。
「線は数学上では幅が無い」というもの。「うへ〜〜!」と思った。
その後、中学3年生の国語の先生。
僕は、そもそも「国語」で「小説の読み方」なんていうものを教えられることなんてできっこないと、思っていた。
しかも、授業で「感動の仕方」なんて、無理無理、とたかをくくっていた。
ところが、この中学3年生の時の女性の国語の先生は、凄かった。
まず、僕たちに「言葉」の持つ働きを考えさせた。
意思の伝達、感情の表現、挨拶、命令・・・・・・等などが生徒が考えられる範囲だった。
ところが、そこに「思考ツール」というのが言葉の大切な働きであることを教えてくれた。
次に、僕に本を読むな、と唯一言った先生だった。
何故、人間は小説を読むのか? と僕たちに問い掛けた。
先生が用意した答えは「より良く生きるため」だった。
そのためには、本を読んだら、必ず考える時間を持てというのだ。
当時、乱読気味だった僕に、それを戒めた。
そして、その先生がある小説を解説していった。
それを聞いているうちに、僕は心の中で「うん、そうそう、そうなんだよ。」とか「そうだ!そういうことなんだ!」となってきた。
「げ〜〜〜! 僕が何となく感動したことを、この先生は理論だって、解説しちゃったよ!!」と感動した。
こういうことだって、先生によっては、できるわけだ。