言葉の使い道
「俳句」は「心を詠み」、「川柳」は「世間」を詠む、「短歌」は「物語を詠む」と書いてある本を読んだ。
なるほど、87へぇ〜だ。
言葉は「感情や情報を伝えるという道具」の側面だけではなく、頭の中では「考える道具」という側面も持っている。
ミスターGの長島茂男(早く元気になってくださいね)みたいに、自分が天才だと、言葉が、その天才についてこれない。
「球がピュッと来るだろう、そこをバシッと打つんだよ。」
これじゃ、凡才には分からない。
しかし、それで長島氏の天才性にはなんら影響しない。
すっごく単純に言って「語彙」が豊富なほうが、微妙なことまで考えることができる。
より多くの言葉を知っていたほうが、深い考えができる。
「歳時記」を読むことは、日本人の繊細の季節の分析眼を垣間見ることができる、絶好の本だ。
川柳のおかしさも、どれだけ人間の深いところを突いているかで、おかしさの深みが違う。
仮に読むだけにしても、小説にしろ、詩にしろ、俳句でも、短歌でも、ある一線まで行くのが大変だ。
「ライ麦畑でつかまえて」を何度、挫折したことか。
感情移入までが大変だが、一度、はまると抜け出せない世界だ。
作るほうに回っても同じだ。
あるところまでは行ける。
そこから、一歩前へ進むのが難しい。
言葉の使い道は色々あるが、まだまだ、僕はその100分の1も使ってないな、と最近、痛感している。