とことん治験の質「問題」の「周辺」にこだわってみる

以前、ここで日本の治験の質が低いとはどういうことかを触れた。(2007/05/19『オーバークォリティ』を考える)

今週はさらに日本の治験の質が低いとはどういうことか、考えてみたい。


まず「治験の質」と言ったときの「質」とは何か?

いろいろ考え方はあるが、たとえば次のことが考えられる。

・GCP、プロトコルの遵守状況

・データの信頼性、科学性

創薬ボランティアの安全性を確保しているか

・モニタリング報告書等で治験が再現できるか

・契約書等の必須文書類が求められている事項を満たしているか


・・・・・・など等。

さて、ここで「日本の治験の質が低い」と言ったときに何を指しているのだろう?

もちろん、それは各個人(各会社)で考えていることは違うし、そのセンテンスが出てきた流れによっても違う。

また、低い、高い、と言ったときに「何を基準にして」、日本の治験の質は低い、と言っているのだろう?

何かと比べて低い、と言っているのか、それとも「総合機構から10個以上」の指摘が有ったら低いとか10個未満なら低いとか言っているのだろうか?


「何を指しているのか」と「何を基準にしているのか」が問題だ。

また、それはいつの時点のことを指しているのか、ということだって、この手の話をする時には重要だろう。


僕がモニターをやっていたころの「旧GCP」に比べて、今はどうだろう?(絶対に、あの頃に比べれば飛躍的にデータの信頼性もプロトコルの遵守状況も向上している。)

あるいは欧米の治験に比べて、あるいは韓国、中国、台湾などに比べて、日本の治験の質はどうだろう?


はたまた、こういう考え方もあるかもしれない。

「3年前の我が社の治験に比べて、今の我が社の治験の質は・・・・・・云々。」

「施設への依頼、契約は問題無いが、プロトコル不遵守が多いので、そこは質が低いと言わざるを得ない」とか。



繰り返すが「治験の何をもって質が高い、低い」と言うのか、「何を基準にして」「どうだったら」質が高いと言えるのか、が大切だ。

日本の治験の何かもかも、全ての質が低いのだろうか?


こういう話は他のことを論じる時にも欠かせない。

「モニターの質の向上」とか「監査担当者の質の向上」とか、漠然としたことを考えていても、そこから先に話が進まない。

どうなったらモニターの質が向上したと言えるのだろう?

実は、このことは僕の仕事にも密接に関連してくる。

僕はモニターの教育を行っているが、その教育効果をどう計るが重要になってくるわけだ。

例えばSOPに「モニターの質向上のために継続研修を実施する」なんて書いていても、何をもってモニターの質を向上させる教育・研修を行ったか、という視点が常に大切になってくる。

「研修を年間30回以上やりました」という回数だけ言っていても意味が無い、ということだ。




「治験のあり方検討会」でも、きっと治験の質、ということも検討されるだろうし、各製薬会社、CRO、治験実施医療機関、SMOにおいても、自分たちの行っている治験の質について、検討していることだろう。

それらの検討の結果、日本の治験の質があがりました、モニターの質があがりました、必須文書には誤字脱字はありません、でも、1年で済む治験が5年かかりました、では、ちょっと困る。

そこには「何のために日本の治験の質を向上させる必要があるのか」という視点を加えないといけない。

また、例えば「新薬の開発期間が従来に比べて2年間、短縮されました」という時に「治験の質」はどう絡んでくるのだろう?


ここから先は、みんなで考えよう!(僕も考えてみようっと。)



架空(仮想)の製薬会社「ホーライ製薬」


臨床試験、治験を考える「医薬品ができるまで」