GCPを学問にしないこと

先日、友人と話していたら、その友人から出てきた言葉に感心した。
それは「GCPを学問にしている人がいる。でも、GCPは学問じゃない!」
なるほど、と思った。 まさに!と大きく同意した。

GCPは法律なので、言葉遣いが難解で、シチ面倒くさく、硬い文章になっている。
また、GCPの重箱の隅を突くような解釈を討論することもできる。
例えばこうだ。

「実施医療機関等設置治験審査委員会」と「実施医療機関等設置治験審査委員会等」ではどこが違うか?
最初の言葉では途中で「等」という文字が入り、次の言葉ではさらに文の最後に「等」が入っている。
(この2つの言葉がGCPのどこに書いてあるかは、ここでは敢えて触れない。みなさんも探してみてください。まるで『ウォーリーを探せ!(ウォーリーをさがせ!きえた名画だいそうさく!
)』みたいで10分は楽しめます。)

クイズの答えは(クイズじゃないけれど)、どうってことがないので、どうでもいいのですが、こういう楽しみ方もできるGCPなのだ。

でも、GCPは学問ではなく、使うものなのだ。

僕たちが携わっている「治験」を遂行する時にガイドラインとして存在するのがGCPだ。

創薬ボランティアの人権、安全、福祉の保護のもと、治験のデータの科学的な質と信頼性を確保するためにだけ、GCPは存在する。
そのGCPの解釈のための解釈ばかりやっていても、何も始まらないし、そんなことをやっていても、治験は一歩も進まない。

「オーバークォリティ」に「オーバーリアクション」、そんな言葉が出てきただけでも、今まで、いかに僕たちはGCPに振り回されてきたかが分かる。
(いや、GCPに罪はない。振り回したのは僕たち治験依頼者、治験実施者、当局という人間のほうだ。)


GCPを学問にしてはいけない。GCPを使って治験を遂行するのが先決だ。(それだけのためにGCPは存在している。)

僕たちは「実践してナンボ」の新薬開発業務を生業にしているのであって、GCPの解釈のためだけの解釈で時間を費やしていい業界にいるわけではない。

GCPの先には新薬を待ち望んでいる患者がいることを忘れてはいけない。
吐き気で苦しんでいる患者にとって、どこに「等」の漢字がついていようとどうでもいいことなのだ。
一刻でも早く、自分の吐き気を止めてくれる薬が世の中に出てくることだけが患者の望みなのだ。


ときどき、立ち止まって、自分たちが何をやっているのか、考えてみるのもいいことだ。
時間が貴重なのは患者だけでなく、僕たちだって同じはずなのだから。



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