俳句に溺れる方法
俳句を作り始めて、何が一番良かったかと言うと「俳句」というジャンルの「読者」になれたことだ。
俳句は上手、下手を無視すれば誰でも作れる。なにしろ季語と五七五の文字数だけを揃えればいいという簡単明朗なルールだ。
だから、俳句を創作、作るという喜びも(ほとんどが苦しみなのだが)良いのだが、僕のように活字を読む中毒患者にとっては、耽溺するその対象が増えた、ということがやっぱり何よりなのだ。
クラシック音楽でも僕は同様の経験をしている。
ひょうんなことから僕は大学時代にオーケストラでトランペットを吹いていた。
しかし、大学以前の僕はクラシックと言えばベートーヴェンしか知らないし、それも「運命」の有名な冒頭の旋律しか知らない、という程度だった。
それがいきなり、モーツアルトやブラームス(そしてもちろんベートーヴェン)の曲を演奏する羽目に陥った。
クラシック鑑賞ならまだしも、楽譜を見て、それを指揮者の指揮の下、バイオリンやホルンやチェロなどと合奏するという世界に一気にワープした。
そして僕はクラシックの鑑賞ができるようになったのだ。
俳句も実は自分で作ってみて、俳句を読むことができる。
もちろん、ただ読むということなら、それこそ小学生も読めるが、いわゆる鑑賞から読み解く、本当の面白さを知るということは実際に自分で俳句を作り始めてから体得できるのだ。
敷居が高いと思ったら、まずはなにより、その敷居の向こうに飛び込んでみることだ。
そこで溺れても僕は知らないが。