もう一度考えたい
治験について原点に戻って考えたい。
薬は、まず「化合物」として見つかる。
たとえば柳の木から「アセチルサリチル酸」という「有機化合物」が見つかったとしよう。
そのアセチルサリチル酸をマウスなどの動物実験(これらの実験を非臨床試験と言う)で、炎症を抑える働きが有ることが分かった。
さらに、毒性などを調べる。 これもほぼ問題が無かったとしよう。
そこで、科学者は、この「アセチルサリチル酸」という「有機化合物」を人間の炎症も抑えることができたら、どんなに素晴らしいだろうと思う。
そのためには、まず非臨床試験の結果(安全性、有効性、一般的な薬理作用、毒性など等)をまとめ、それらから、人間に使用可能かどうか判断する。
使用可能という判断ができたら、最初は一般の健康な男性を対象とした第1相臨床試験というものをやる。
その試験を行う方法をプロトコールという臨床試験の試験方法にまとめる。
その中には治験に参加可能な人の条件(登録基準)、参加できない人の条件(除外基準)、アセチルサリチル酸をどれ位の量で、どのように人間に使うか・・・・・・など等を細かく規定する。
もちろん、治験に参加して頂く人に対する「同意説明文書」も作る。
他にも、いろんなことを決めて、「総合機構」に治験届を出す。
治験届を出して、問題が無かったら、アセチルサリチル酸は「有機化合物」から「治験薬」と名前を変えて、人間に使われる。
そして、順次、適切な手順を踏んで、最後の第3相臨床試験のデータも全て出揃い、人間に使っても大きな副作用も出ず、しかも炎症を抑える効果も有ることが証明できたとしよう。
これらのデータを全て(非臨床試験から臨床試験、それに製造方法、分析方法なども含めて)集めて、「総合機構」へ提出される。
「総合機構」は提出された結果からGLP、GCP、GMP上の問題が無いかどうか、有効性、安全性に問題が無いかを審査する。
問題が無いと、厚生労働省へ審査結果が送られ、最終的には「厚生労働大臣」により製造の承認許可が出され、世の中に出ることになる。
世の中に出ると、アセチルサリチル酸は商品名「×××」という名で「薬」となる。
ここで注目したいのは、柳から発見された「アセチルサリチル酸」という「有機化合物」の構造式は全く変わってないということだ。
構造式が変わってないのに、それが単なる「有機化合物」から「治験薬」になり、最後には「薬」と呼ばれる。
どうしてだろう?
どうして、構造そのものが全く変わってないのに、「薬」と呼んでいいのだろう。
構造式が変わってないのなら、何が変わったのか?
それは「アセチルサリチル酸」に「有効性」や「安全性」という「データ」即ち「情報」が附加されたからだ。
化合物を薬に変えたのは「情報」である。
そして、審査する「総合機構」の人も、厚生労働大臣も、製薬会社が提出した「紙に書かれたデータ(情報)」しか見ていないのだ。
審査する人の誰一人として、アセチルサリチル酸の結晶構造を直接見たわけではない。
さらに、審査する人の誰一人として、治験中に治験薬を飲んだ患者さんから、直接、「効いたかどうか」、「副作用は無かったか」を聞いた人はいない。
審査する側は製薬会社が提出した紙に書かれただけの「データ(情報)」を信頼して(書面調査や実地調査等も含めて)、審査する。
厚生労働大臣はその審査結果(これまた、ただの紙に書かれたもの)を信頼して、薬として販売することを許可する。
世の中に出た「薬」は添付文書という注意書きと共に「医者」に届く。
医者は国が認めたことと添付文書に書かれたことを信頼して、患者さんに使う。
患者さんは、医者を信頼して、その薬を使う。
GCP上、製薬会社は治験に対してデータの信頼性保証を行う義務がある。
じゃ、一体、誰に対して「信頼性」を「保証」するのか?
それは、その会社の臨床監査部門に対してか?
それとも、「総合機構」に対してか?
「厚生労働大臣」?
いずれも、違う。
僕たちは、その薬を使うことになる患者さんに対して、薬の効果と副作用のデータの「信頼性」を「保証」するのだ。
僕たちの仕事は、機構や監査から指摘を減らすのが仕事なんかではない。
薬を使ってもらう、いや、「使わざるを得ない患者さん」に対して僕たちのやっている仕事を信じてもらうために、信頼してもらうために、GCPを守りながら仕事をしてるのだ。
患者さんは、僕たちを信頼しているのだ。
もし、このサイトを通じて、一般の人や「薬を使わざるを得ない患者さん」のみなさんに、僕を信じてもらえなかったら、それは、もう僕の存在価値が無いということに等しい。